洞福寺について

ご挨拶

洞福寺のホームページをご覧いただきありがとうございます。
洞福寺は石巻市十八成浜の陽山寺を本寺として文亀元年(1501)に開山したと伝えられる曹洞宗の寺院です。
小衲、当寺24世の石田信孝と申します。平成24年度まで宗門学校の東北福祉大学に40年間奉職させていただきました。現在は社会福祉法人東松島福祉会の理事評議員と東北福祉大学佛教専修科の講師を拝命しています。
平成21年に念願だった山門が落慶し、古い新しい小さい大きいは別として、伽藍・荘厳仏具・庭園がやっと整備され檀信徒の皆さんと「これで他の寺院と並んだ」と安心を得たところ、東日本大震災で全てを失ってしまいました。本当に残念でなりません。
地域はもとより檀信徒の皆さんのほとんどが津波により家屋等を流失被災しましたので寄付をいただくことは到底できません。
幸いにも本堂・庫裡に対し保険加入していたので、保険金を基にその範囲で復興再建したく準備を進め、当寺所有の山林と隣接山林のご寄付を受け開発手続きを済ませスタートを切りましたが、従前のように復興できるのはかなり先になりそうです。
少しでも早く復興し檀信徒の皆さんや地域の方々の安心を得るために皆様のご支援ご協力お願い申し上げご挨拶といたします。
合掌

洞福寺の沿革

伝承によれば創建は古く、光山の山中にあったと言われ、開基渥美家(屋号=上の家)の先祖により現在地に移転し、陽山寺二世嘯山文虎大和尚を招請して「曹洞宗光谷山洞福寺」として開山されたとされている。
その後二度の火災に遭い(二度目は嘉永元年11月4日)で記録の一切を失い、創建・中興開山の年月等は不明である。
「封内風土記」には『云々後柏原帝。永正中(1504〜21)文虎和尚開山。』とあり、安永三年(1774)の「風土記御用書出」には『当寺ハ嘯山文虎大和尚文亀元年(1501)開山ニ付當安永三年迄弐百七拾四年ニ罷成候事』と記されている。
「宮城縣史宗教学問・風土記」、「牡鹿郡誌」、「牡鹿町誌」などの文献でも諸説があるが「日本地名大辞典」、「日本歴史地名体系」では文亀元年(1501)開山、「当寺過去帳」による嘯山文虎大和尚遷化永正元年正月24日(1504)からみると、文亀元年(1501)開山説が妥当と考えられる。

名 称
法人名 宗教法人 洞福寺 / 山号 「光谷山」(こうごくさん)
所在地
宮城県石巻市谷川浜中井道7(旧牡鹿郡牡鹿町)
開 山
陽山寺2世 嘯山文虎大和尚
本 寺
大金山 陽山寺(石巻市十八成浜)
御本尊
釈迦如来座像
宗 派
曹洞宗 曹洞宗宗務庁=東京都港区芝2丁目
宗 祖
道元禅師(佛性伝東国師)
本 山
大本山永平寺(御開山=道元禅師=高祖承陽大師、福井県吉田郡永平寺町)
大本山総持寺(御開山=瑩山禅師=太祖常済大師、神奈川県横浜市鶴見区)

日本公許最後の仇討について

文化14年(1817)12月20日、越後の国新発田藩(新潟県新発田市)で溝口内膳正の家来で、お納戸役(財務担当)の滝沢休右衛門が藩金を使い込み、同僚の久米弥五兵衛に見つかり、使い込みの発覚を恐れ弥五兵衛を殺害し逃走した。時に長男幸太郎 7歳、弟盛次郎 5歳、弥六 3歳だった。休右衛門は逃走中僧侶(僧名=黙照)となり、宮城県内外の寺院を転々とし、最後に洞福寺に身を寄せるまで刀を放さなかったという。
殺害から10年後の文政10年(1828)、幸太郎18歳で幕府に「仇討ち廻国御免」の許し状(免許状)を願い出、受け取った筒井伊賀守、榊原主計頭の署名のあるその許し状は、幕府が出した最後の仇討ち免許状だったといわれている。 その後、許し状を懐中に日本全国を仇討ちの旅に出発してから30年後の安政4年(1857)10月9日、石巻祝田浜神明社(五十鈴神社)麓で父弥五兵衛の敵を討ったのである。時に殺害から40年後のことであった。

平成10年(1998) 3月3日、NHK総合テレビ「堂々日本史」で江戸のおきて・あだ討ちの真実 壮絶 親の敵を40年追った武士として放送された。

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